Iran (Persia): Records of the U.S. Department of State, 1883-1959
19世紀末、イランはその地政学的重要性の故にイギリスとロシアが鎬を削ったグレートゲームの主戦場となりました。イギリス人の投機家タルボットへのタバコ利権供与に対して1890年に始まったカジャール朝政府に対する民衆の抗議行動、タバコ・ボイコット運動は、1905年に再発し、翌1906年に国王(シャー)は民衆の要求を受け入れ、議会を招集し、憲法の制定を認めるにいたりました。その後1911年までの5年間、ロシアを後ろ盾とする国王と議会の間で政治闘争が繰り広げられました。立憲革命と呼ばれるこの政治闘争は外国の利権の廃止を試みるも、失敗に終わります。改革を実施しようとする立憲政府の試みは挫折し、中央政府は破綻します。1921年に、コサック旅団長のレザー=ハーンがクーデタを起こし、国軍の最高司令官となり、実権を掌握、1925年に国王に退位を迫り、カジャール朝が滅亡すると、国王に就任し、ここにパフラビー朝が始まります。国王レザー=シャーは鉄道敷設等の工業化を推進する一方で、官僚制度、法制度、教育制度等、上からの改革を実行します。本コレクションに収録された1931年の報告書には「レザー=シャー=パフラビー自身は教育を受けていないが、数世紀にわたりイランを苦しめてきた諸問題を解決するためには教育が欠かせないことを常に態度に示している」との記述が見られます。レザー=シャーは1934年にテヘラン大学を創設し、1935年には女性の入学を認めます。第二次大戦が開戦すると、当初は中立政策を取りましたが、ドイツへ接近すると、これを嫌った連合国によりレザー=シャーは退位を迫られ、1941年に息子のムハンマド=レザー=シャーが第二代国王に即位します。1950年代初頭、モサデグ首相がアングロ−イラニアン石油会社の国有化法案を通過させ、石油国有化運動を進めると、アメリカのCIAの工作により軍部がクーデタを起こし、モサデグ政権を打倒し、国王の権力が強化されます。国王は1979年のイラン革命まで統治します。
本コレクションは、米国国務省在外公館の外交官が国務省と交わしたイランの政治、経済、社会、軍事動向に関する往復書簡です。往復書簡の他に、国務省スタッフが用意した報告書や覚書、国務省と外国政府との交信記録、国務省以外の省庁、民間企業、個人との往復書簡も収録されています。この間、26人の歴代公使、大使が、イランの国内情勢と周辺国を含む地域情勢を本国に報告しました。本コレクションは、19世紀末から20世紀半ばにいたるイランと中東地域に関する政治、外交、経済、社会情勢に関する重要な情報を含む貴重なコレクションです。
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